ふること

多分、古典文学について語ります

実は源氏物語の裏ヒロイン?! 雲居の雁の話(1)

<承前>

物語の姫君は、奥深く暮らして男に顔も見せないという「姫君の生態」上、どうしても恋愛の始まりには

  • 宮中での出会い(姉妹等が宮中にいて、そこに遊びに行った時の出会い等。花散里・朧月夜パターン)。
  • 男が忍び込んで関係を無理強いする

のどちらかになりがちで、宮中での出会いパターンの場合だって、女の方でも男を見る機会があるというぐらいで、結局は「親の屋敷の奥にいるよりは忍び込む隙がありがち」というだけで「忍び込んで無理強い」パターンになりがちだよね…という話を昨日書きました。

高貴な姫君が、自分から男を見初めて招き入れたりしてしまっては、少なくとも「高貴」な感じではなくなってしまう。
姫君と合意ある場合というのは「親が決めた縁談」というパターンぐらいで、その場合は「結婚」であって「恋愛」にはなりづらい。
だから、物語で姫君との恋愛を描くには、どうしても「関係を強いる」ところから始まるパターンになりがちだよね…

という理屈なんですが。

 

たとえば朧月夜尚侍も、宮中で光源氏と出会って恋愛するようになったものの、彼女の人柄の描かれ方としては「ちょっとなびきやすくて軽々しいところがある」という感じで、光源氏自身が彼女をちょっとその点で思い落として見ている風もあります(自分でなびかせておきながらこれだから、源氏クンときたら…)

 

言ってしまえば、「高貴な姫君」は、強姦されて処女じゃなくなってから初めて、姫君として恋愛という舞台の上に乗る…みたいな観がある
その意味で、「姫君」が王朝物語で描かれる恋愛において、最初から自分で男を選ぶ主体性を持つのは大変に難しい、とも言えるでしょう。

…しかし、我らが紫式部大先生は、そんなことでは引き下がりません。


高貴な姫君が、親が決めた縁談でもなく、無理強いで始まるわけでもない「両想いの恋愛」をする。
時代背景からするとかなり難易度の高そうな、そんな「恋愛」をも、紫式部源氏物語の中で描き出しています。

 

それが、雲居の雁とその夫、夕霧の恋愛。


通常、「二人は筒井筒の幼馴染で…」という説明だけですんなり納得してさらっと流しがちなこの二人の馴れ初めですが、よくよく考えると、二人の恋愛の舞台背景は、かなり細部よく練り込まれているイレギュラーなものなんです。

だいたいが、高貴な身分の姫君と若君が、いとこ同志だからといって「顔も知っている」というシチュエーション自体、まずありえない。
兄弟ですら、ろくに姉妹の顔も見たことないなんてこともよくある時代、まして結婚可能ないとこ同士で「幼馴染で一緒に遊んで育つ」とか、普通ありえません

しかし、夕霧と雲居の雁の間で違和感もなくそれを成立させるために、色々な要素が前提となっています。

以下、それを列挙してみましょう。 

  • まず、夕霧の母であり、雲居の雁の父内大臣(頭中将)の妹である葵の上が、早くに亡くなってしまいます。このことが、夕霧と雲居の雁が一緒に育つことになる大前提となります。
  • 普通、男の子は父方で育てられるが、娘を亡くしてしまった葵の上の母・大宮が気の毒だというのもあり、源氏の特別な配慮で、夕霧は祖母大宮のもとで育てられることになります(そこらへんの説明も、葵の巻に書いてあります)。
  • 雲居の雁の母は身分の高い王族出で、彼女は血筋も良いけれど、母親が按察使大納言と再婚して弟妹がたくさん生まれたため、通常通り母親のもとで育てられると、数少ない娘を按察使大納言に取られてしまいそうという特殊事情のもと、父方の祖母の大宮に育てられることになる。

  • 結果、夕霧と雲居の雁は、同じ祖母大宮のもとで、姉弟のように育つことになる。

ここ、かなり特殊なシチュエーションです。

通常、離婚や死別などがあった場合、息子は父方で、娘は母方で育てられるものです。しかし雲居の雁の場合、両親が離婚した後、母が按察使大納言という高官内大臣/頭中将にとって、按察使大納言という高官は政治的ライバルになりうるような地位の相手)の正妻になって、弟妹も大勢産まれています。


髭黒右大将の長女、真木柱の姫君が、のちに式部卿宮が差配して蛍兵部卿宮を婿に取ったように、結局、姫君については住んでいる屋敷の男あるじがある種の親権みたいなものを持ち、縁談や身の振り方を決めるようなところがあります。

玉鬘が当初、冷泉帝の尚侍として出仕するという身の振り方が定められた際も、彼女が住んでいる六条院の主である養父光源氏の発言権が大きかったですしね。
ああいう感じです。


内大臣(頭中将)は、北の方との間に男の子はいっぱい生まれたものの、女の子は一人しか生まれませんでした。この時代、后がねともなり、有力貴族との通婚という意味でも、女の子というのは上流貴族にとって非常に重要な手駒です。

一番大事なのは、正妻との間に生まれた長女(冷泉帝の弘徽殿の女御)としても、他にもせっかく身分の高い妻から生まれた申し分のない女の子がいるのに、その子は、このままでは按察使大納言の娘分になって、親権を取られてしまいかねない。

それは非常にもったいない…という、ある意味かなり政治的な思惑もあって、内大臣(頭中将)は、雲居の雁を引き取って、母大宮に預けます。

ここも、普通は引き取ったら自邸に連れていって北の方に預けるものでしょう。
それをなぜ北の方に預けなかったのかという疑問が出そうなところ、物語の最初の頃から、頭中将の北の方が嫉妬深いうるさ型で、娘を産んでいた夕顔を脅したように、とてもじゃないけど継娘を引き取って大事に育てるようなタイプの女性じゃなかったという背景と、それにプラス、頭中将の母の大宮が一人娘を亡くして寂しい境遇だった、ということから、祖母大宮に預ける…というのが自然に思えるような流れが、物語の中に作られたわけです。


ここで、「身分は高く出自は申し分なく、かつ、母も後見として目を光らせている」姫君が「父方の祖母に育てられている」という、相当に特殊なシチュエーションが生まれた…ということになります。


この雲居の雁の設定というのは、おそらくは細部まで作者の計算がなされているのだと思われます。


通常、母のいない娘というのは、まともな結婚もしづらかったり、気の毒な境遇に落とされがちです。
落窪の君なんかもそうですが、宇治十帖に出てくる「宮の君」も、式部卿宮の娘でありながら、父の死後、継母の思惑でひどい結婚をさせられそうになり、仕方なく明石中宮に引き取られて、女一宮のもとに女房として出仕することになる…という哀れな境遇に身を落とすわけです。
一方で、桐壷更衣や玉鬘の娘たちのように、父が亡くなった場合でも、母が健在ならそれなりに頑張れたりも。
女の子は特に、母親の存在が大事だったようです。

雲居の雁については、もし母親が同居していたら、夕霧と雲居の雁の関係が深まる前に様子を見て、適宜引き離すなどしていたことでしょう。当然です。

そもそも、十歳過ぎたら夕霧とは引き離すように、と父大臣側からは言われていて一応は離れて暮らすようにはなっているのです。
しかし、祖母大宮は、夕霧には特に甘い祖母であり、かつ帝と一つ腹の内親王様という高貴さで、どこかおっとりしたお嬢様気質。
実際的な母親のように、娘に目を光らせつつ女房たちを監督する…というきびしさはありません。
勢い、父大臣がいうようにきちんと引き離せていたかというと、そうでもなかった。夕霧は、いくらでも隙を見て雲居の雁に近づいていたわけです。

結局、雲居の雁は、母が同居していなかったため、監督が緩かったといえるでしょう。
しかし、彼女には母がいないわけではないし、大切にされていないわけでもない。
母親はれっきとした勢力を持ってちゃんと存在し、彼女の行く末についても目を光らせています。それを示唆するように、雲居の雁の将来が問題となるたびに、乳母達が「大納言殿」の思うことを気にしていたり、物語の地の文に大納言殿がどう思った…みたいな説明が要所要所で挿入されます。
もし、彼女についていい加減な扱いがされたら、母親は黙っていない。「そんな扱いするならこちらに引き取ります」といつでも言って按察使大納言邸に連れ去ることだってできるわけです。
だから、内大臣側はいつも「大納言殿」の思うところに気を遣っている。

後見もあり、大事に育てられているのに、実際の監視は緩かった。

ある意味、絶妙なバランスでお膳立てができあがっています。

 

ここらへんの経緯、原典から拾ってみましょう。

 

「むつましき人なれど、男子にはうちとくまじきものなり」と父大臣聞こえたまひて、けどほくなりにたるを、幼心地に思ふことなきにしもあらねば、 はかなき花紅葉につけても、雛遊びの追従をも、ねむごろにまつはれありきて、心ざしを見えきこえたまへば、いみじう思ひ交はして、 けざやかには今も恥ぢきこえたまはず。(乙女)

「親しい人といっても、男子には気を許すものではありません」と父大臣が申し上げなさったので、姫君と若君は引き離されて暮らすようになったけれども、若君はそれについて子供心に思うことがないでもなかったので、ちょっとした花や紅葉を贈ったりといったことにつけても、雛遊びでご機嫌取りをするにつけても、熱心に姫君にまとわりついてあれこれ奔走して歩いて、真心をお見せ申し上げていらっしゃったので、姫君も若君とたいそう思い合って、今も、きっぱりと顔を見せない等と恥じらう態度をお見せ申し上げることはなかった。


 夕霧は、まず10歳過ぎて離れて暮らすようになった時、すでに姫君を思う気持ちがあったので、あれこれと何かにつけて贈り物をしたり、雛遊びに付き合ったりして(このことは、のち夕霧が明石の姫君の相手をする時に思い出したりしていますね)、姫君のご機嫌を取ります。
姫君の方も、一応離されたといっても、いきなり顔も見せないような態度は取らず、二人は「いみじう思ひ交はし」つまり両想いになっていたわけです。

うん、微笑ましい幼馴染の恋ですね。

紫式部が、特異なシチュエーションが不自然にならぬよう、細かい設定を積み重ねて用意した舞台装置が見事に結実しています。
ごく自然に従姉弟同士が姉弟のように親しく育ち、しかし若君の方は「姉弟」などとは思っていない。姫君も警戒もせず、素直に若君を慕っている。
姫君は大事に育てられてはいるが、母ではなく祖母に預けられているので、そんなに監視は厳しくない。


この文章は、以下のように続きます。

御後見どもも「 何かは、若き御心どちなれば、年ごろ見ならひたまへる御あはひを、にはかにも、いかがはもて離れはしたなめきこえむ」と見るに、女君こそ何心なくおはすれど、男は、さこそものげなきほどと見きこゆれ、おほけなく、いかなる御仲らひにかありけむ、よそよそになりては、これをぞ静心なく思ふべき。

 後見の乳母たちなども、「いやいや、まだ幼い同士なのだから、長年親しくなさっていた間柄なのに、どうやって急に引き離してばつの悪い思いをおさせすることができるでしょう」というふうに見ていたが、女君の方は何ということもなく無邪気でいらっしゃったけれど、男は、いかにもたあいのない子供のようにお見受けされたものの、年にも似合わず、いったいどのような間柄になっていらっしゃったことだろうか、元服後によそよそにお暮らしになるようになってからは、姫君に逢えないことを落ち着かなく思っていたようです。

 

周囲も「子供のことだから」と微笑ましく見守っていたのに、いやいやどうして。
夕霧、若干12歳前後にして、大変手が早い。

10歳になって離れて暮らすようになり、かえって意識するようになったところもあるんでしょうね。元服する頃には、どうもすっかり二人は深い仲になってしまっていた、と。

雲居の雁の方は13~4歳ぐらいでしょうか。まだまだ無邪気なばかりで、そういう行為に応じることがよいとも悪いとも分かっていなかったのかも知れないですが。

ただ、同じように、14~5歳で、男女のことなどよく理解しておらず無邪気だった紫の上は、光源氏に行為を強要された時は激怒していたわけです。

それを考えると、雲居の雁が紫の上の新枕の年頃よりちょっと下だったというのもあり、また、同じく無邪気だったとはいえ、紫の上が打てば響くような賢いタイプで、源氏の行為後はその裏心?まですっかり合点して激怒したのに比べて、雲居の雁はおっとりしていて幼い性格だったというのもあるのでしょうけれど。
しかしやはり端的に言って、雲居の雁の場合は夕霧と「いみじう思ひ交はし」ていたというのが大きかったんでしょう。
ここのところについては、実は 夕霧自身のれっきとした?証言があったりします。

藤裏葉」にてのちに二人が結婚した時、夕霧が雲居の雁にこんなことを言います。

 

「 少将の進み出だしつる葦垣の趣きは、耳とどめたまひつや。いたき主かなな。『 河口の』とこそ、さしいらへまほしかりつれ」

あなたの弟の少将が、わざと謡い出した「葦垣」の歌の趣旨(男が女を盗みだそうとしたら、親に告げ口されて失敗したという歌)は、耳におとどめになりましたか? ひどい人ですね。「河口の」と言い返してやりたかった。

 この「河口の」と言い返してやりたかった…という意味はどういうことかというと。
葦垣も河口も、催馬楽という古代歌謡なのですが、河口は

河口の 関の荒垣や 関の荒垣や まもれども はれ

 まもれども 出でて我寝ぬや 出でて我寝ぬや 関の荒垣

河口の関を護る荒垣よ、関の荒垣よ、娘を守っていても、ほら、守っていても、私は抜け出して寝てしまったよ 抜け出して寝てしまったよ 関の荒垣よ

 という歌で、要するに、娘を男から固く守っていても、娘は自分から抜け出して男と寝てしまったということです。

意味するところは露骨ですね。

「あなたの弟は、私があなたを盗み出そうとしたら失敗した…なんて当てつけがましい歌を謳っていたけれど、聞きましたか?ひどい人ですね。本当は、あなたの方から積極的に私と寝てくれたんだ、と答えたかったなあ」

それに対して雲居の雁は、そこは全く否定せず「あの時、いったいどなたが私たちの浮名を漏らして世間に流したんですの。ひどいわ」と返答しています。



要するに、紫式部は、二人が結婚する時にその頃のことを蒸し返してまで、

雲居の雁が、最初から完全に合意の上で夕霧に許した


という「高貴な姫君には珍しい恋愛のはじまり方」だった事を念押ししているわけなのです。

これが珍しいシチュエーションだ、というのは、夕霧と雲居の雁のエピソードを読んでいるだけでは気が付きづらい。それぐらい、二人の恋愛に至る状況整備はさりげなく行われ、ごく自然な成り行きとして描かれています。

そして、ですね、紫式部が、ここまで微に入り細に入り設定を積み重ねてまで、雲居の雁の合意から始まる恋愛を描き出したということは、源氏物語の構成上、非常に意味深いことなのではないかと私は思うのです。

だから「裏ヒロイン?」とか題につけたんですが。


王族の高貴な血筋を引いていること。

祖母に育てられたこと。

男女のことをそんなによく分かっていない無邪気なうちに、男と関係を持つに至ったこと。


雲居の雁と紫の上には、ちょこちょこ共通している要素があります。
そして何よりも一番の共通点。

それは、

夫の愛を確信して安心して長年過ごした後に、突然夫が皇女と結婚してしまう

という危機に見舞われるということ。

 

紫式部は、正統派ヒロインの紫の上に対し、高貴な姫君でありながらかなりコミカルに描かれもしている雲居の雁を、対比する意味で配置していたのではないかな、と思います。
そこらへんの話は、長くなったのでまた今度……