藤壺宮は源氏の「理想の女」ではないのか?
承前。
「素直で自分の言うことには従い、ひかえめで、自分の思うように仕立て上げられる女」という一面での源氏の理想は、源氏の理想の女性であるはずの藤壺宮のキャライメ―ジとはいささか異なっているように思います。
藤壺の性格については、たとえば「帚木」の巻では、左馬頭が、かしこぶって才や教養をひけらかす才女はアカン、と散々にこき下ろした後、
すべて、 心に知れらむことをも知らず顔にもてなし、言はまほしからむことをも、一つ二つのふしは過ぐすべくなむあべかりける
もっぱら、知っていることも知らないふりをして振る舞い、言いたいことがあったとしても一つ二つは言わずにおくようであるべきなのです
とまとめたのに対して、源氏が
…と言ふにも、君は、人ひとりの御ありさまを、心の中に思ひつづけたまふ。「これに、足らず、またさし過ぎたることなくものしたまひけるかな」と、ありがたきにも、いとど胸ふたがる。
左馬頭がそう言うにつけても、源氏の君は、ただ一人の人(藤壺宮)のご様子を心の中に思い続けていらっしゃる。「左馬頭がいう話に照らしても、(藤壺宮は)才覚が足りないというところも、また出過ぎた態度もなくていらっしゃることだ」と、めったになく素晴らしいお方と思うにつけても、たいそう胸が苦しくなる。
といって、藤壺宮が教養も申し分ないがかしこぶってひけらかすようなところがなく、控えめで理想的だ…と考えてたりします。
まあ確かに、気が強そうな弘徽殿の女御に比べると、藤壺は多少控えめなのかなって感じはしますね。
かといって、藤壺宮は結構気丈なところもあって、忍び込んできた源氏に頑として体を許さなかったりしたこともある(最後の逢瀬のあたりで)上、いきなり源氏を捨てて出家してしまったりもしているので、必ずしも「男に従う」女ではないし、「はかなびたる」というような弱弱しい感じでもない。
ましてや源氏が思うように教え導けるような女でもない。
完成された理想的貴婦人である藤壺に憧れ、恋焦がれている…と言っても、実は、源氏自身が語り、そして実行している「理想の女」論からしたら、
藤壺は源氏の理想の女ではない?! …とも思えます。
このギャップって、案外、源氏物語のテーマとして重要な部分なんじゃないかなーと思ったりするんですよね。
だいたいが
・はかなげで弱弱しく、保護欲をそそられる。
・ものやわらか…つまるところ、おだやかで優しい性格。
・ともすると男にだまされてしまいそうなぐらい素直で信じやすい。
・控えめで引っ込み思案。自分からぐいぐい行かない。
・関係ができた男には、素直に従う。
…そういう女を、自分の思うように教えて矯正して共に暮らしたい。
この理想論からしたら、100%ぴったりなのって女三宮じゃないですか?
でも、源氏は女三宮の幼さに飽き足らず、同じ年ごろだった頃の紫の上はもっと気が利いてて手ごたえがあった、みたいに思ってんですよね。
かの紫のゆかり尋ね取りたまへりし折思し出づるに、かれはされていふかひありしを、これは、いといはけなくのみ見えたまへば、「よかめり。憎げにおしたちたることなどはあるまじかめり」と思すものから、「いとあまりものの栄なき御さまかな」と見たてまつりたまふ。(若菜下)
かの紫のゆかりを探し出して迎え取りなさった時のことを思い出すと、紫の上は気が利いていて話のしがいもあったのに、この女三宮は、たいそう幼くお見えになるばかりで、「まあよかろう。憎らしげに気強く自己主張なさるようなことはなかろうから」とお思いになるものの、一方で「あまり張り合いのないご様子だ」と、拝見なさる。
そもそも光源氏って、才がない女、受け答えに気配りがなく、気が利いていない女をバカにしている様子も結構見受けられる。
女三宮に対しては特にそうだし。
自分で思うように教え育てたいなんて言いながら、実際は女自身に教養や才気、気配りを求めている。出しゃばっちゃダメだけど、ひかえめにしながら才気は見せてね。
口で言ってる理想論とはまた別に、そんな本音があるんだろうなってところでしょうか。
うーん贅沢ですなあ。
そこの、才気と控え目さとのバランスが、藤壺宮は絶妙で最高だった!
…と、光源氏は思っているのでしょうが……
しかし、だ。
桐壺院の死後、藤壺に無理やり言い寄り、髪を掴んで荒々しく引き止めまでしたのに結局は思いを遂げられず、それにふてくされて、あてつけに参内の供奉もサボって雲林院に籠もってアピールしまくったのに、結局はあっさり出家されて完全に捨てられてしまって呆然として、それでもなかなか藤壺への思いを断ち切れないでいた時の、光源氏の哀れにも情けない姿を思うと…
「従う女」が好きだ、なんてうそぶいてるのって、思い通りにできない女への恋で辛い思いばかりしている負け惜しみじゃないの。
という気がしてきます。
藤壺への初恋を秘めて結婚した「最初の女」葵の上は、彼女が后妃になるべく育てられた気位の高い女性だったこと、年上だったことから、源氏に物柔らかになびくということをしない女だった。
「初めての恋」の藤壺とは、17歳ぐらいの時点で一度関係を持っているようなのだけれども、それでも源氏と心を合わせて逢瀬を図るような人ではなく、常につれない。
この二人の女のことを考えると、どうも源氏って、女性経験の最初で「肉体関係上の契は結んでも、自分を認めてもらえない、受け入れてもらえない」というトラウマを受けた結果、幼い頃から周りにもてはやされ褒められ尽くして育ったにも関わらず、妙に承認欲求が強い性格になってしまったのではなかろうか…という気がしてきます。
藤壺のように美しく教養もありつつ、物柔らかで思いやりもあり、優しい女性。そんな女性が自分を選び、愛してくれる。
光源氏の理想の恋愛は、そういったごく当たり前のものだったのに、
「身分も教養も高く思慮深く美しい女性」は「母の身分の低さから東宮にもなれなかった自分を愛してくれない」
というトラウマから
何もかも理想的な素晴らしい女性に、自分を選び、受け入れ、認め、愛してもらえる自信がない
という、光源氏が奥深く隠しているコンプレックス・泣き所ができあがってしまったのではないか。
だからこそ、光源氏クンは、「女をまず自分のものにした上で、理想の女に仕立て上げる」という発想になったのではないですかね。
思えば、夕霧が紫の上を垣間見るようなことがないように常に厳しく見張っていたりしたのも、「夕霧が紫の上に横恋慕して無理に迫るようなことがあったら、紫の上が夕霧になびくと思っていたのか?」という疑問を感じずにはいられません。
あんまり紫の上のこと、信頼していないよね…?
時代背景的に、男が女のもとに忍び込んだら、女は抵抗が難しいものだから?
でもそのわりには、女三宮が柏木と関係していたときは、女三宮のことも責めてたよね? 女三宮が、ただ抵抗できずに関係してしまっただけかも知れないとは(そして実際そうだったのだけれども)、源氏は考えてもいなかったよね?
紫の上を自分が育てたのでなく、紫の上に「源氏の妻になる」以外の選択肢もあった場合に、源氏は自分が選ばれる自信がなかったのだろうか?
なんてことをちょっと考えてしまったりもします。
そう考えると、母や祖母を早くに亡くしてしまっていることも含めて、シンプルに「愛されたがり」な、不安を抱えた光源氏の姿が見えてくるようにも思えます。
でも一方で、世の中にもてはやされて育ってきた光源氏には「なんでこんなに素晴らしく美しく、もてはやされている自分を愛さないのか。そんなはずはないのに」という反発心もあったりしそう。
藤壺に対する態度でも、あてつけがましいことをしたりするのも、どこかしら本当に嫌われてはいないだろうという自惚れも感じられるし、葵の上に対しても「どのみち正妻なんだから」というたゆみは常にある。
結局は、「何もかも理想的な素晴らしい女性に、自分を選び、受け入れ、認め、愛してもらえる自信がない」から「女をまず自分のものにした上で、理想の女に仕立て上げよう」と思っていたのだとしても、プライドもあるので、自分から発する表現としては「素直で自分の言うことに従い、ひかえめで、自分の思うように仕立て上げられる女がいい」になっちゃうのかもね。
そう考えると、後年の源氏が、ひたすら自分に従う女、自分に頼るしかない寄る辺ない女たちを六条院に集めている姿は、なんか物哀れにもなってきます。
ほめられたがり、愛されたがりの光源氏くん。
鏡の自分の顔をうっとり見つめるほどのナルシストであり、高い自負心を持ちながらもどこか飢えたところを持っていて、そこのせめぎあいから影のある行動を見せる!!とかいうカッコイイことにならず、むしろ褒められたがったり、愛されたがったり…というちょっと滑稽な態度も見せる(自慢癖については女房たちにまで笑われてるし)あたりが、どうにも可愛いよね。と思います。