月に日に異(け)に~~万葉集のリズムが好きです
万葉集って、王朝時代以降に比べて野趣に富むリズム感があるように思います。
そう感じるのも、ある意味現代的な感覚なのかも知れないけれど。
春日野に朝居る雲のしくしくに 我(あ)は恋増さる月に日に異(け)に(万・巻4・698)
春日野に朝かかっている雲が絶え間なく重なっていくように、私は月ごとに日ごとにいちだんと、恋する心が募っていくのです
「しくしくに」で調べると、漢字で「頻く頻く」と書き、動詞「頻く」を重ねたものから、しきりに・絶え間なく、たび重なるなどの意味…とあります。
ただ、原文は「朝居雲之敷布ニ」で「朝居る雲のしくしくに」と読むようです。
万葉集ってほら、万葉仮名とかいって、もとは漢字で書いてあって、それを大和言葉に読んで解釈するわけなんで。
「敷布」で「しくしく」と考えると、どちらかというと布を敷いたように広がっている雲というニュアンスだったりしないのかな?と思いますが、まあ基本「しくしく」は「敷布」と表現することが多そうなので、漢字の意味に引っ張られるのも良くないのかなあ。
空の雲を見上げながら、自分の恋心もあの空の雲のように日に日に増していくのだ…と
恋し続けてやっと逢えた時ぐらい、私を思いやって愛の言葉を尽くして下さいな、ふたりの間を長く続けようと思うならば
「うつくし」という言葉は、古語では「美しい」ではなく、弱いものを愛しむといったニュアンスなので、美辞麗句を連ねて下さい、という意味ではなく、あなたを思っている私を哀れんで優しい言葉をかけて下さい、といったニュアンスになると思われます。
それにしてもこの歌も、「恋ひ恋ひて」と動詞を重ねた勢いのまま、命令形の「言尽くしてよ」まで一気に流れ込み、最後は倒置で「長くと思はば」と締める言葉の力強さが好きだなあ。
万葉集はともかく言葉のリズムに魅せられることが多いんですが、たとえばこんな歌
我(あ)が心 ゆたにたゆたに 浮き蓴(ぬなは) 辺(へ)にも沖にも寄りかつましじ(万・巻7・1352)
私の心は安心したり動揺したりで、浮いているジュンサイのように、岸辺にも沖にも寄り付くことができない
「ゆたに」は「ゆったりとして」。「たゆたに」の「たゆた」は「たゆたう」と同源で、ゆらゆらと揺れ動いて定まらない様を言います。
「ゆたにたゆたに」というリズミカルな語感に「ぬなは」という発音しにくいひっかかりが続くあたりが好きだなあ。
ジュンサイの古名?が「ぬなは」って知らなかったですが(笑)
歌のリズムというと、有名な歌ですが、但馬皇女が高市皇子の妻だった時に、穂積皇子と関係を持ったことが露顕してしまった時に詠んだ歌で、
人言を繁み言痛み己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る(万・巻2・116)
人の噂がひどくなって煩わしくて、生まれてこのかたまだ渡ったことのなかった朝の川を渡ることよ
「朝の川を渡る」のニュアンスが分かるような分からないような感じですが、「人言を繁み言痛み」という畳み掛けるようなリズムは、なんだか追い詰められた感じでいいなあ、と。
「人言を繁み言痛み」というのは別の人の歌にもあって、高田女王が今城王に贈った歌六首の中に
人言を繁み言痛み逢はざりき 心あるごとな思ひ我が背子(万・巻4・338)
人の噂がひどくなって煩わしかったのでお逢いできなかったのです。異心があるとお思いにならないで下さい、あなた。
という歌があります。(この今城王という人は、なかなかの色男だったっぽい?)
「人言を繁み言痛み」という表現て、なんかtwitterで炎上したり叩かれたりして落ち込んでる人を見かけると、そういう心境なのかな?って思ったりしますね。
「あれこれ言われてうるさい、煩わしい、嫌だ、心が痛い」ってな感じ?
端的に言い表してていいなあ、と(万葉集では、人がうけひかないような恋愛(いわゆる不倫とか)について「人言を繁み」って出てくることが多いようですけども)。
言葉のリズム的には、「逢はざりき」で途切れてしまう高田女王の歌よりも、但馬皇女の歌の方が、最後まで一気になだれ込むような感じでベターな気がします。
こうして見てると、万葉集の時代、どんな風に発音してたのかも気になってくるなあ。当時の発音ではどんなリズムになってたのか、とかね。