夫が新しい妻の元へ行くのを見送る妻たち1~髭黒大将の北の方@源氏物語
源氏物語には、夫が新しい妻を作り、元からの妻が、夫が新しい妻の元へ出かけていくのを見送る…という場面が何度か描かれています。
それも、決して「愛人」の元へ出かけて行くというわけではなく、「新しい妻」なのです。
元からの妻も、同居して夫の衣食住の世話をしているれっきとした妻であるが…というか、そういうれっきとした妻がいるにも関わらず、それに加えてもうひとり、愛人ではい「れっきとした妻」を夫が新しく作った…というシチュエーション。
「新しい妻」は、「元からの妻」が、妻として長年築き上げた権勢を持ってしても圧倒できないような、それなりの身分や権勢のある、侮れない相手。
むしろ、その新しい妻の方が、身分や権勢、夫の愛情すべてをもってして、今後は夫の「第一の妻」、あるいはすっかり古い妻が捨てられて「唯一の妻」になってしまいかねない…という状況です。
果たして、本当に古くからの妻は捨てられてしまうのか。どうなってしまうのか?
そんな場面が三回も描かれていて、私は作者は当然その三回の描き分けを意識してやっていたに違いない、と思うのです。
そんな目に遭うまず一人目の女性は、紫の上の異母姉、式部卿宮の長女であった髭黒大将の北の方。
「真木柱」の巻に、切々とその場面は描かれています。
髭黒大将の北の方はどういう人だったか
髭黒大将は、紫の上の異母姉にあたり、式部卿宮の長女である彼女と結婚して子供が3人ほどいました。
この北の方は、人に劣るようなところはなく、身分の世評も容貌も悪くない人だったのですが、
あやしう、執念き御もののけにわづらひたまひて、この年ごろ、人にも似たまはず、うつし心なき折々多くものしたまひて、御仲もあくがれてほど経にけれど、やむごとなきものとは、また並ぶ人なく思ひきこえたまへるを
あやしくしつこい物の怪に取り憑かれていらして、長年、尋常な人のようでもなく、正気がなくなってしまうようなことが多くていらっしゃって、夫婦仲も疎遠になってしまって時間が経っていたが、髭黒大将は、大事な正妻としては、また他に並ぶ人もないようにお思い申し上げていた
物の怪がついて尋常の人ではないようになることが多かったので、夫婦仲もうとうとしくなっていたが、正妻としては大事に扱っていた、という状況でした。
しかし、髭黒の大将は、光源氏の養女として引き取られた玉鬘の姫君に懸想した挙句、尚侍となって冷泉帝の後宮に侍ることになっていた玉鬘の寝所に女房の手引きで忍び込み、既成事実を作って、大勢の求婚者や光源氏すら出し抜いて、彼女を妻とすることに成功します。
世の権力者である太政大臣たる光源氏の養女であり、第二の権力者である内大臣の実娘でもある玉鬘は、冷泉帝の伯父たる式部卿宮の長女という北の方の世の覚えにも負けない…どころか優るだけの勢いのある女性。
そういう女性が夫の新しい妻となってしまったため、父の式部卿宮は「別れて実家に帰って来い」とも言い、北の方自身も諦めモードになっています。
北の方は、長年物の怪に病んできたせいもあり、住まいも乱雑で汚くなっていてだらしない有様になっていましたが(玉鬘の住まう六条院は大変に綺麗で立派なので、そういうところでも大将は玉鬘に目移りしています)、大将は北の方に対して、夫婦として長年過ごしてきたこともあり、子供たちもいることなので、今では「心には、いとあはれと思ひきこえたまふ/心では、たいそう愛しくお思い申し上げていらっしゃる」と書かれています。
一応、長年の妻に対する愛情はあったのですね。
髭黒の大将はどうやって妻をなだめようとしたか
髭黒大将も、一応北の方に対して、新しい妻のことを色々と言い訳してなだめようとします。
そのなだめる時の言い分が、こんな感じ
- あなたが体の具合も悪そうだったので、新しい妻のことを話さなければと思いながらも話せなかったんです。(身も苦しげにもてなしたまひつれば、聞こゆべきこともうち出で聞こえにくくなむ)→のっけから、妻に何も言わずに他の女と結婚したことを、妻の体調のせいにしています。
- それなりの身分の者は、長い付き合いじゃない夫婦仲だって、それなりに我慢して添い遂げるものですよ。(昨日今日の、いと浅はかなる人の御仲らひだに、 よろしき際になれば、皆思ひのどむる方ありてこそ見果つなれ)→常識持ち出して、自分の浮気を妻に我慢させようとしてます。
- 私は、あなたの病気を長年我慢してきたんですよ(世の人にも似ぬ御ありさまを、見たてまつり果てむとこそは、ここら思ひしづめつつ過ぐし来るに)→相手の悪いところをあげつらってプレッシャーかけてます。
- 幼い子供たちもいるのだから、あなたをおろそかに思ったりはしていませんのに、整然と物を考えられない女心で、無闇に恨んだりなさっているのですね(幼き人びともはべれば、とざまかうざまにつけて、おろかにはあらじと聞こえわたるを、女の御心の乱りがはしきままに、かく恨みわたりたまふ)→女の心よりも、中年男の女狂いの方がよっぽど「乱りがはし」くありませんかね。
- あなたの父君があなたを実家に連れて帰ろうとしているそうですが、かえって軽々しいことですよ。→娘を心配して父が言ってくれていることを安易にけなしたりするの、無神経ですよね~
…とまあツッコミいれずにいられませんでしたけど!(笑)
こんな「説得」を得々とした挙句、最後に髭黒くんは
「まことに思しおきつることにやあらむ、しばし勘事したまふべきにやあらむ」と、 うち笑ひてのたまへる、 いとねたげに心やまし。
「本当にあなたが考え決めたことなのでしょうか。しばらく私をこらしめてやろうとしていらっしゃるのではないですか」と笑い声をあげておっしゃるのが、たいそう憎らしく不愉快な感じである。
どうせ俺を捨てるなんて口だけだろ。そう言って脅かしてやろうと思ってるだけなんじゃないの?(笑いながら)
いとねたげに心やまし。
烏帽子ひったくって頭と髭をつるつるに剃ってやりたいわ、髭黒くん。
そのあと、「私のことはまだしも、父のことまで悪く言うなんて…」と北の方にシクシク泣かれたので、髭黒くんは「わ、悪くなんて言ってないもんね!人聞き悪いこといわないでもらおう!」的に言いつくろいつつ、戦法を変えます。
「いや実はさ~、あの天下の太政大臣様の御屋敷に出入りしてると、ちょっとこっちも気づまりでさ。だから、うちに連れてきたいんだよね。何しろあの、世の中で比べるものもないぐらい、声望のある太政大臣様だからね。あちらに、あなたがこうしてあの人のことを嫉妬してるなんてよくない噂が耳に入っちゃったらマズいでしょ?(「かの通ひはべる所の、いとまばゆき 玉の台に、うひうひしう、きすくなるさまにて出で入るほども、かたがたに 人目たつらむと、かたはらいたければ、 心やすく移ろはしてむと思ひはべるなり。 太政大臣の、さる世にたぐひなき御おぼえをば、さらにも聞こえず、心恥づかしう、いたり深うおはすめる御あたりに、 憎げなること漏り聞こえば、 いとなむいとほしう、かたじけなかるべき」)
→新しい妻の後見人が天下の権力者であることを持ち出して、アナタが文句言ってるとあちらさまが不愉快にお思いになりますよ、と妻を脅しています。
「だからさ、あの人とも、妻同士で仲良くしてよ。そりゃ、あなたが実家に帰っちゃってもオレだってあなたのこと忘れないよ。でもね、そんなことになったら俺だって世の中の物笑いの種になってみっともないから、頼むからそんなことせず、許して欲しいんだよね」(なだらかにて、御仲よくて、語らひてものしたまへ。宮に渡りたまへりとも、忘るることははべらじ。とてもかうても、今さらに心ざしの隔たることはあるまじけれど、 世の聞こえ人笑へに、 まろがためにも軽々しうなむはべるべきを、年ごろの契り違へず、かたみに後見むと、思せ」)
→俺が人に笑われちゃうじゃん。(勝手に笑われろ)
…真面目に訳すとイラっとしそうなので、適当にしてます。
ここで髭黒くんは、一生懸命一日費やして妻の機嫌を取るんですが、その機嫌取りに言い聞かせる内容がコレなので、見るからに望み薄です。
この、男っぽいキャラの髭黒くんの無神経で大雑把な性格、めっちゃキャラ立ちしてるっていうか…
読者もイラつかせようと思ってニマニマしながら書いてるんだろ、言いたくなるぐらい、紫式部さんの筆が冴えているように思います(笑)
いよいよ新しい妻のもとに夫が出かけようとしたところに…
で、その後に玉鬘のところに出かけたくて雪空の様子を窺っている髭黒くん。
北の方が文句など言ってケンカを売ってくれば、こちらもケンカを買って腹を立てた風で出ていくなどもしやすいけれど、北の方が思いの外に穏やかにさりげなく振る舞っているので、不憫にもなり、どうしようか迷っています。
すると北の方は、物分りよく「今更止めても仕方ない」と諦めて、「早くお出かけなさいな」と促します。
大将は、「太政大臣や内大臣の思うところもあるので、途絶えを置くのははばかられるから」など言い訳して出かけようとしつつ、一応「かく世の常なる御けしき見えたまふ時は、ほかざまに分くる心も失せてなむ、あはれに思ひきこゆる/こうして普通のご様子でいらっしゃる時は、私も他に分ける心もなくなって、あなたを愛しくお思い申し上げるのですよ」と嬉しがらせを言います。
それに対して、北の方は「どうせそうおっしゃってこちらにいらしても、お心はあちらへいってしまわれるのでしょうから、かえって辛いですわ。あちらにいらしても、私を思い出して下されば、涙で凍ったこの袖の氷も解けることでしょう」としおらしげにいい、大将の衣装を香壺に掛けて香を焚きしめてやります。
その姿を眺めて、大将は哀れになって「二人で長い年月過ごしてきたのに、すっかり新しい妻に心を移してしまうなんて、軽薄なことだ」とも思うけれど、それでも新しい妻、玉鬘のことを思うと心がウキウキするので、ため息をつくふりをしながらいそいそと身支度をしてます。
供の者たちもさりげなく出発を催促します。
その時、事件が起きます。
正身は、いみじう思ひしづめてらうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りてさと沃かけたまふほど、人のややみあふるほどもなう、あさましきに、あきれてものしたまふ
北の方ご本人は、たいそう落ち着いて、可憐な様子で物に寄り臥していらっしゃるように見えていたが、突然起き上がって、大きな籠の下にある香炉を取り寄せて、殿の後ろに寄って、さっと灰を浴びせなさったその間は、人が見とがめる暇もなかったほどのことで、大将殿は驚いて呆然としていらっしゃる。
そう、有名な、香炉の灰ぶっかけ事件、勃発。
ホントに物の怪ですか、と
この北の方が引き起こした事件は、一応物の怪の仕業だということになってます。
「うつし心にてかくしたまふぞと思はば、またかへりみすべくもあらずあさましけれど、「例の御もののけの、人に疎ませむとするわざ」と御前なる人びともいとほしう見たてまつる。
正気でこのようになさったと思えば、二度と振りむいて見たくもないぐらい呆れはてたことだけれども、「いつもの御物の怪が、人に愛想を尽かさせようとしてすること」と、御前にお仕えする女房たちも気の毒に拝見している。
その後、北の方に憑いた物の怪を払うため僧を呼び、北の方は一晩中泣きわめき、僧に打ち据えられたり引き倒されたりして大騒ぎした挙げ句、朝方になってようやくおさまります。
…ここまで読んで、やはり思うわけですよ。
ほんとに物の怪の仕業かな?と。
いや~こんな無神経なダンナと長年暮らした挙げ句、権門勢家を後ろ盾にした若くて美しい新しい妻をこしらえて、その妻のもとにいそいそ出かけようとする後ろ姿を見てたら、灰ぐらいぶちまけてやりたくなって当たり前じゃないですかね。
多分、この北の方はもとの性格がおとなしく穏やかみたいですし、夫は無神経な物言いで言い募って自己満足に浸ってるタイプみたいなんで、玉鬘のことがなくても、長年言いたくて言えないことが溜まりたまって爆発…みたいなことが何度もあったんじゃないかな~、それを、身分高い女性にあるまじき行いとして「物の怪」扱いしてただけじゃないかな~、と思わずにいられませんね。
概括
結局のところ
- 大将は妻に愛情が完全になくなったわけではなかった。長年連れ添った年月のこともあり、子供のこともあり、別れるつもりはなかった
- 女としての魅力も妻としての能力も新しい妻の方が優るとさりげなく描かれる中、仕方がないと諦めて、妻はギリギリまで我慢をする
- しかし結局、妻もブチギレて灰をぶっかける。
- 夫、いよいよ妻に愛想を尽かす。
- 妻は実家に帰ってしまって完全離婚。娘の親権は妻側に。
という流れになったのでした。
個人的な着目点は、この人が「紫の上の実の姉」であったこと。
この時点では、姉の不幸な運命は紫の上にとっては他人事であり、いたましい出来事、あるいは夫・光源氏の養女であることから自分までも巻き込まれて恨まれてしまい、困った出来事であるに過ぎません。
しかし、後に紫の上は、この姉のことをも新しい思いで思い返さざるを得なくなるのです。
彼女が思いもしなかった事件、つまり、夫・光源氏が新しい妻、女三宮を迎えることになるにあたって。
というわけで、次回は紫の上が女三宮を妻に迎えた夫を見送る場面について。