ふること

多分、古典文学について語ります

増賀上人、下ネタ尽くしで太皇太后宮を諭す?!

なんか源氏物語の話を始めるとそればかりになってしまうので、息抜きに、たまたま昨日拾い読みをしていた今昔物語でちょっと面白い話があったので、その話を。
なお、文中の今昔物語は「今昔物語集・新編日本古典文学全集 巻十九/小学館」より。

 

むかし、三条の太皇太后宮という人がいた。円融天皇の皇后で(『素腹の后』と言われた藤原遵子)、ご寵愛を受けていたが、年をとったので「出家しよう」と思い、多武峰に籠もっている増賀聖人という尊い僧に髪を切ってもらおうとして、使いをやった。
すると増賀は

「糸(いと)(たふと)キコトナリ。増賀コソハ尼ニハ成シ奉ラメ。他人(ことひと)ハ誰(たれ)カ成(な)シ奉ラム」今昔物語集・新編日本古典文学全集 巻十九/小学館

「それはたいそう尊いことです。この増賀こそが、尼にしてさしあげることができましょう。他の誰がしてさしあげられましょう(いや、できますまい)」

 と言ったので、増賀の弟子たちは「てっきり使者を怒ってなぐるだろうと思ったのに、こんなにおだやかに『参上しよう』というなんて、稀有なことだ」と言っていたそうな。

そうして増賀は三条宮におもむいたので、后宮は喜んで、では今日出家しよう、という話になり、上達部(高官)が何人か、他に高僧たちが立ち会い、出家することとなった。
立ち会うものたちが見るに、この増賀聖人は、恐ろしげな目つきをしていて、不気味な様子をしていたので「これだから恐れられているんだな」と思っていた、と。

そうして聖人は后宮の前に召し出されて出家の儀式をして、后宮の御几帳のもとで、書き出された長い黒髪を切ったが、切った後で急に、声高らかに言うには、

増賀ヲシモ召(めし)テカク令挟(はさまし)メ給フハ何(いか)ナル事ゾ。若(も)し乱(みだ)り穢(きたな)キ物ノ大(おほき)ナル事ヲ聞(きこ)シ食(めし)タルニヤ。現(げ)ニ人ヨリモ大(おほ)キニ侍(はべ)レドモ、今ハ練絹(ねりぎぬ)ノ様(やう)ニ乱々(くたくた)ト罷成(まかりなり)ニタル物(もの)ヲ。若(わかき)(かみ)ハケシウハ侍(はべ)ラザリシ物ヲ。糸(いと)口惜(くちを)シ」

 「この増賀を召し出してこのように髪を切らせなさるのは、どういうことなのか。まったく納得できませんな。もしかして、拙僧のこの汚いイチモツが大きいということをお聞きになってのことでしょうか。確かに、人よりも大きいですが、今は練絹のようにクタクタとなっていますのに。若い頃はまんざらでもなかったのですが、まったく残念なことだ」 

なんで后宮がわざわざ拙僧をお召しになったのかさっぱり分かりませんな。まさか、この私を、ただ出家するのに髪を切らせたいっていうだけの些細な用事で呼びつけなさったわけじゃありますまい。
拙僧のこの汚いイチモツが大きい(大事なところなので繰り返します)とご期待なさって、それで慰んでみたいとお思いになってお呼びいただいたのかも知れませんが、しかしさっぱり立たないんで、お役に立てそうにもありませんよ。これでも若い頃はブイブイ言わしてたんで、お相手もできたかも知れませんが、年には勝てず、残念なことです。

染殿の后とか二条の后とか、后が僧と密通みたいな話はよくあったので、それにあてつけて、「体目当て?」と言ったんでしょう。

さて、そんなことを増賀が大声で言い放ったので、周囲の女房たちはポカーン。后宮も茫然自失状態で、僧や高官たちも冷や汗ダラダラ。

そしてそのまま立ち去ろうとして、聖人は皇后宮大夫(皇后を世話する役所の長官・藤原公任だったらしい)に向かって

「年罷(まか)リ老(おい)テ、風(かぜ)(おも)クテ、今ハ只(ただ)利病(りびゃう)ヲノミ仕(つかうまつ)レバ、参(まゐ)ルニ不能(あたは)ズ候(さぶら)ヒツレドモ、態(わざ)ト思(おぼ)シ召(め)ス様(やう)(あり)テ召(め)シ候(さぶら)ヘバ、相(あい)(かま)テ参(まゐ)リ候(さぶら)ヒツレド、難堪(たへがた)ク候(さぶら)ヘバ忩(いそ)ギ罷(まか)リ出(いで)(さぶら)フ也(なり)」トテ出(い)ヅルニ、西ノ対ノ南ノ放出(はなちいで)ノ簀子(すのこ)ニ築(つい)(ゐ)テ、尻ヲ掻(かき)(あげ)テ楾(はんざふ)ノ水(みず)ヲ出(いだ)スガ如(ごと)ク脪(ひ)リ散(ちら)ス。其(そ)ノ音極(きはめ)テ穢(きたな)シ。御(おほん)(まえ)マデ聞コユ。

「拙僧は年老いまして、風邪も重く、今はひたすら下痢ばかりしておりますので、参上もいたしかねたのですが、あえてお考えになることがあってお召しになったことですので、どうにかこうにか参上いたしましたが、もはや耐え難くなりましたので、急いで退出いたす所存です」といって出ていき、西の対の南の放出の簀子縁のところにつと座って、尻をまくり上げて、たらいの水をぶちまけるかのように、下痢便をひり出した。
その音はきわめて汚らわしかった。后宮の御前まで聞こえた。


いや~年寄りなんで、風邪引いて下痢してましてね。わざわざ拙僧めをお呼び出しになるからには、よっぽどお考えがおありなのだろうと思ってあえて参上しましたが、そうでもなさそうなんでね。もう我慢もできないんで、失礼しますよ。

ってなもんで、皮肉を言いながら、ケツ出して下痢びしゃーっ!

 

若い殿上人や侍たちは腹を抱えて大笑いし、増賀聖人が退出したのち、年長の者たちは「カヽル物狂(ものぐるひ)ヲ召タル事ヲゾ極(きはめ)テ謗(そし)リ申ケレドモ甲斐無クテ止(やみ)ニケリ/このような狂人を召した事を、口をきわめて非難したけれど、どうしようもなくて終わった」、と。


…すごいね。うん。下ネタ2連発

 

最初斜めに読んだ時には、「かかる物狂を召したること」とかあったんで、この僧はオカシイ人で、后宮がうっかり変な僧を呼んでしまって大失敗、って話なのかなって思ったんですよ。

でもこの話の後には、「この后宮は、出家して熱心に修行し、毎年二回ずつ、きっちり厳しく、ちょっとでも不浄の者がいないように潔斎して読経もさせていた。この方は読経のことだけでなく万事こんな調子で、なにごとにつけてもきちんとしていて、いい加減なことをしなかった」なんて話が続きます。その中で「ここまできちんきちんと読経をさせているのだから、もっと霊験あらたかに現れても良さそうなものだが、そんなこともないのだから、たいした霊験でもないのだろう」と中傷するものもあった、なんてことが書かれています。


更に「比叡山横川の僧都の恵心僧都」の話になり、この方が京都中托鉢して歩いていたので、この后宮が、僧都のために銀の器をわざわざ作らせて、それに食事を盛ってさしあげたので、僧都が呆れて「(あま)リニ見苦(みぐるし)/これはあまりにひどい」と言って、その托鉢自体をやめてしまった、という話が続きます。
それに対して地の文で「此レゾ少シ余リ事ニテ、無心ナル事ニテ有ケル/これはいささかやりすぎで、思慮に欠けた振る舞いであった」と評しています。


つまりこの后宮は、潔癖症でこだわり症でもあり、何事にも適度とかほどほどとかせず、また本来の意味などを深く考えることもせず、あさはかな善意で、浅薄によりよいものを求めてやりすぎる人だった。

僧都が托鉢して歩いているのに銀の器をわざわざ作らせて食事をさしあげても、食事は食事。世俗の宝などの価値から離れた出家の身が食事をするためだけの器に、特別あつらえの銀など使っても、それに何の意味があるのか、ということになるわけです。
そういう財力を使って貧しい人に施す、とかなら意味があるかも知れませんが、后宮はそういう発想はない。ただひたすら、偉いお坊さんに尽くしたいだけ。

そもそも、増賀が后の宮に出家のために呼びつけられた時、増賀が「他の人には后宮を尼にしてさしあげることはできますまい」と言っていますが、これがそもそも皮肉。
出家したいという心を起こしたからといって、ただ髪を切るだけなら誰でもできること(自分で切っちゃうとかいうのもよくある話だし)。
それのためだけにわざわざ聖人を呼びつけたからといって、それに何か意味がありますか?
「偉い人に髪を切ってもらった」って思いたいだけ?
…ということにもなります。


出家のために聖人に髪を切ってもらおうとしたことも、恵心僧都に銀の器をさしあげたことも、仏教への信仰心篤さゆえにやったことかも知れませんが、しかし権力・財力を尽くしてやっていても、仏教本来の意義ということから離れてしまっている。

となると、それは権威・権力をただ振り回して、いわば札束で増賀聖人や恵心僧都のほっぺたをひっぱたいていることにしかならないわけです。

そういう、まったく后宮自身は理解できていない無意識に行っている無法な態度への抗議として、増賀聖人は下ネタ連発した…という話なわけです(多分、この后宮は潔斎へのこだわりからしても潔癖症っぽいので、わざわざあてつけで下ネタかましたんでしょうけど)。

 

いやーこの后宮みたいな人、よくいるよね。「良いこと」と思ってやってるのに何がいけないの?って言っちゃう人さ~。
ああ…教育業界とかPTA業界とかにも、よくいる。うん。すごくよくいる。
「子供のために良いことだから」ってお金だの手間だのかけまくって、かえって子供苦しめたり、長い目で見て子供のためになってなくない?みたいなのとかね。

しかしこの后宮は、出家の儀式を下ネタで台無しにされても全く自分の非には気が付かなかったようなので、一生そんな感じで終わったのだろうと思われます。
さうやうならむ人も、世には多かるめり。


この皇太后遵子という人は、皇子皇女が一人もいないのに、皇子を産んだ藤原詮子をさしおいて皇后に立てられたので「素腹の后」と揶揄されたり、大鏡だったかな、生まれつき知能に問題があるけれど容貌は美しかった八宮を養子にしようとして騙されかけて云々、みたいなエピソードがあるので、ちょっと世の中からは、人柄を軽んじて見られているようなところもあったのかも知れませんね。(あるいは後に政権側になった藤原兼家一派からは、かも知れませんが)