ふること

多分、古典文学について語ります

雲居の雁の話(2)。主に紫の上との共通点について

前回、

  • 紫式部が、「高貴な姫君だけれど、親ではなく自分で好きになった相手と、合意の上で関係を持つことで恋愛が始まる」というなかなか王朝物語の姫君では成り立ちにくいシチュエーションを、細かい設定を積み重ねることによって成り立たせて、その上でできあがった姫君が「雲居雁」なのだ…という話

  • その雲居雁は、紫の上と共通点がいくつかある…という話をしました。


今回はその続きで、雲居雁と紫の上との対比…という話を語ろうと思います。

まず、紫の上との共通点について。前回挙げたもの以外にも、思いついたものを列挙。

 

  1. 王族の高貴な血筋を引いていること。
  2. 母が父の第一の妻ではなかったこと。
  3. 「按察使大納言」というキーワード。
  4. 祖母に育てられたこと。
  5. 夫も早くに母と別れ、祖母に育てられた。
  6. 男女のことをそんなによく分かっていない無邪気なうちに、男と関係を持つに至ったこと。
  7. いじわるな継母がいること。
  8. 嫉妬深いところが愛嬌である、と描かれていること。
  9. 夫の愛を確信して安心して長年過ごした後に、突然夫が皇女と結婚してしまうという危機に見舞われるということ。


1.王族の高貴な血筋を引いていること。

紫の上は、藤壺中宮の兄の兵部卿宮(のち式部卿)の娘。孫王にあたります。雲居雁は、母親が「わかんどほり腹」なので、母親が宮家の女王とかなのかも知れませんね。詳しいことは分かりませんが…

2.母が父の第一の妻ではなかったこと。

「第一の妻」という表現は、「正妻」とした方がいいかと悩んだ末にそちらを選んだ…という感じなのですが。
「正妻」という言葉だと、江戸時代の武家諸法度以降の、ただ一人の正妻が最初から法的にも決まっていて、その人が常に正妻というニュアンスを抱きがちなんですが、この時代そういうわけでもありません。
たとえば紫の上は正妻だったのか正妻「格」だったのか、とか色々ありますが、「正式な妻」という意味での「正妻」であれば、紫の上は「正妻」の一人だった。そして女三宮降嫁までは「第一の妻」だったので、その意味でも「正妻」だった。
しかし、「正妻」という言葉は「最初から常に第一の正式な妻」といったような印象があるので、その意味では、紫の上の立場というのは「その時一番愛されているから第一の妻」なだけで、より身分の高い妻が来たら当然追いやらせてしまう程度の危ういものに過ぎなかったわけです。
その意味では「正妻」という感じじゃない…というので「正妻格」とか言われたりするわけですね。


平安時代の貴族の妻について、正式かつ第一の妻である妻以外が「妾妻」「側妻」だったかというと、そういうわけでもないんですね。
「正式な妻」という意味では、たとえば藤原道長の第二の妻、源明子も「北の方」とは呼ばれる人であって、正式な妻ではあった。
ただ、子供が生まれたときに、その子供の待遇は母親ごとに違うことが多いんですね。

有名なのは、藤原道長の子供たちのうち、源倫子腹の子が嫡子として出世が早く、源明子腹の子たちよりも優遇されていたため、正妻は倫子である…という話。
ふたりとも「北の方」「正妻」であったとしても、嫡妻・第一の妻は源倫子だったわけです。


とりあえず、子供たちが母親の違いで扱いに差がある場合に、一番優遇されている子供たちの母が「第一の妻」(正妻)ということになります。
夫の待遇に差がある場合、より重い扱いを受けている方が「第一の妻」(正妻)ということになります(夫と同居しているとか、色々)。

ただ、そもそも相手女性との仲を男が世間的に認めていない場合は「妻」ではなく「愛人」の扱い。
子供を認知してたり、相手の女性を自邸に迎えて女主人として住まわせたら「妻」。
自邸に迎えとって住まわせていても、和泉式部敦道親王の邸に迎えとられた時は、身分差が大きく、女主人としてではなく敦道親王に仕える女房として迎えとられていたので、「妻」ではなく「召人」ということになります。

ただ、藤原兼家の晩年に「権の北の方」と呼ばれた人のように、女房身分の召人としてであっても、他に妻がおらず、邸内で色んなことを仕切ったり等と権勢を振るって「北の方のようなもの」になる人もいたようです。
そこらへんからすると、やはり「正妻として邸を取り仕切る人」というニュアンスも大きいんでしょうね。
そこからすると、女三宮って実際的に六条院を取り仕切るためのことなどは全部紫の上に任せてそうなんだけどね。

…ついつい、話を脇道で膨らませてしまう。

話を雲居雁と紫の上の母の話に戻そう。


いずれにせよ、紫の上の母は、子供を兵部卿宮が認知していたので、兵部卿宮の正式な妻の一人であったとは言えるのでしょうけれど、同居することもなく、北の方と呼ばれる人ではなかった(道長の第二の妻・北の方だった源明子に比べると、妻ではあるけれど愛人に近いようなポジションっていうんですかね)。

一方、雲居雁の母に関してはどうか。
この人と頭中将の馴れ初めとか経緯とかは分からないんですが、ともかく、子供も生まれたけれど別れて、雲居雁の母は按察使の大納言の北の方になった、と。

この人が頭中将と「別れた」というのを「離婚」と表現されたりもしますが、ここらへん微妙なところ。


離婚という言葉にしても、現代に比べると曖昧なところがあるんじゃないかな(律令で、夫が3年通ってこなかったら再婚していいという規定があったらしいですが)。
たとえば、同居しているのにどちらかが家を出たら、それは「離婚」(髭黒大将と最初の北の方パターン)。子供がいて、それを男が認知しているけれど、別れたら「離婚」(雲居雁の母と頭中将のパターン)。


だいたいが、「第一の妻」に誰がなるかというのもかなり結果論のところがあって、勿論親が認める正式な結婚をして、結婚当初から妻方が夫の世話をしているような結婚をした妻が正妻として幅をきかせるのは当然なんですが、それだって、そういう妻との間に子供があまり生まれず、他の女に子供が沢山生まれて、結局はそちらを男が自邸に迎えて「第一の妻」とすることだってありえる。

だからこそ、頭中将の北の方、右大臣の四の君は、子供がいる夕顔を脅して別れさせたりだとか(それ以上子供が生まれないように、みたいなこともあったんでしょう)していたのだと思います。

右大臣の四の君は、結婚当初あまり頭中将とうまく行っていなくて、頭中将はよそで女遊びしまくりだったので、妻としての地位を保つのに必死だったのかも知れませんね。幸い、子供も沢山生まれたので、無事北の方としての地位を確立し、頭中将とも同居するようになったわけですが。

 

で、雲居雁の母に戻りますが、この人もおそらく、右大臣の四の君がうるさいから頭中将とは別れたんじゃなかろうか、と(笑)
はっきり書かれているわけじゃありませんが、面倒な妻がいる頭中将より、按察使大納言の北の方に収まる方が良かったんでしょう。慧眼です。

まあいずれにせよ、雲居雁の母も、紫の上の母も、そんなに低い身分の人ではなかったけれど、もっと権勢のある妻が他にいて、勝ち残れなかった・勝負を降りてしまった人だった、と。

 

3.「按察使大納言」というキーワード。

これ、面白いなと思うんですけどね。
紫の上の祖母は按察使大納言の北の方。母はその娘。
雲居雁の母は、按察使大納言の北の方。ことあるごとに「大納言殿の思う所は…」とか、「大納言殿もどうお思いになるか…」みたいな話が出てきます。


まあついでに、光源氏の母、桐壷更衣も按察使大納言の娘なんですが。
あと、のちの紅梅右大臣(頭中将の次男、柏木のすぐ下の弟)は、「紅梅」巻では按察使大納言だったりします。

ま、バックが「按察使大納言」だったというのは、それなりに高い出自であったが、大臣クラスではない…というポジション。
源氏物語での「按察使大納言」のニュアンスってすごく気になるんだけれど、まず言えることとして、大納言には2パターンある。

  • 摂関になることも望めるようなクラスの上級貴族が、大臣へ昇進する途中で大納言になるパターン
  • ようやくなり登って大納言どまり、大臣になれないパターン

光源氏や頭中将は前者のパターンで、大納言だった期間って短かったんじゃなかったですかね…

でも、大納言まで出世しても大臣になれずに死んでしまったりする後者のパターンでは、桐壺更衣みたいに、娘が入内しても当初は更衣どまりで女御になれなかったりするわけです。

納言と大臣の差はそれなりに大きい。

あと一歩のところで大臣になれずに終わるとなると、なんかすごい「残念」感があって。だから「大納言」って高官なんだけど、足がかりパターンなのか、大納言がようやっとパターンなのかどっちなのか?というあたりの、微妙なニュアンスがあるような気がします(笑)

紫の上の実家、按察使大納言家は、「大臣にまでなれなくて亡くなってしまった」パターン。
雲居雁の母の夫であった按察使大納言がどのパターンだったかは分かりません。源氏物語内で、どういう係累かよく分からない大臣というのもちらちら出てくるので、大臣にまでなり登った可能性もあります。

4.祖母に育てられたこと

紫の上は、母が亡くなって母方の祖母に育てられました。雲居雁は、母が父と離婚・再婚して子供が沢山生まれていたため、継父に取られないよう父が引き取って父方の祖母大宮に預けられて育ちました。

5.夫も早くに母と別れ、祖母に育てられた。

いうまでもなく、光源氏は3歳の時に母桐壺更衣が亡くなり、6歳まで母方祖母に育てられ、そのあとは桐壺帝が育てます。
夕霧は、生まれた時に母が亡くなり、その後は12歳で元服するまで祖母に育てられ、そのあとは祖母の他、花散里が養母となります。

親子とも母との縁が薄かったわけですが、光源氏と夕霧の違いは、夕霧の場合は祖母が成人後まで元気だったという点でしょうか。

実は夕霧のババコンっぷりは相当なもので(まあ母代わりなので無理もないんでしょうが)、「夕霧」で、落葉宮の母御息所の死後、夕霧が何度も何度も恋の恨み&母を亡くした宮へのお見舞いの手紙を送っても、全く返事がないため、以下のように内心で考えるシーンがあります。

 

「 悲しきことも限りあるを。などか、かく、あまり見知りたまはずはあるべき。いふかひなく若々しきやうに」
と恨めしう、
「 異事の筋に、花や蝶やと 書けばこそあらめ、わが心にあはれと思ひ、もの嘆かしき方ざまのことをいかにと問ふ人は、睦ましうあはれにこそおぼゆれ。
大宮の亡せたまへりしをいと悲しと思ひしに、致仕の大臣のさしも思ひたまへらず、ことわりの世の別れに、公々しき作法ばかりのことを孝じたまひしに、つらく心づきなかりしに、 六条院の、なかなかねむごろに、後の御事をも営みたまうしが、わが方ざまといふ中にも、うれしう見たてまつりし。
その折に、故衛門督をば、取り分きて思ひつきにしぞかし。人柄のいたう静まりて、物をいたう思ひとどめたりし心に、あはれもまさりて人より深かりしが、なつかしうおぼえし」
など、つれづれとものをのみ思し続けて、明かし暮らしたまふ。(夕霧)

 

「悲しいことといっても限りがあることだろうに。なぜこうまで、あまりにも人の気持ちをご存知ないような様子でいらっしゃるのだろう。どうしもうもなく、子供じみた様子ではないか」

と落葉宮のことが恨めしく、

「花だの蝶だのと見当違いの筋を書いているならばともかく、自分の心にも哀しく思われ、嘆いていることについて、『いかがですか』と聞いてくれる人は、なつかしく親しみを感じられるものではなかろうか。
私も、祖母大宮が亡くなられた時たいそう悲しいと思ったものだったが、伯父の致仕の大臣がそんなに悲しいともお思いにならず、親との死別はこの世の定めであるとばかりに、表だった儀式のことばかりを親孝行として供養なさっていたのが、自分にとっては恨めしく気に食わなかったが、父六条院が、かえって血のつながった息子ではない間柄ながら、丁寧に後の供養を営みなさっていたのが、我が親と言いながらも、とても嬉しい気持ちで拝見していたものだ。
その時に、故衛門督のことを、とりわけ好きになったのだ。人柄がたいそう落ち着いていて、思慮深くて、悲しみも他の人より深かったのに惹かれたのだ」
などと、つくづくと物思いにふけり続けながら、明し暮らしていらっしゃった。

 
祖母大宮が亡くなったのは夕霧が16歳ぐらいの頃。まだ雲居雁とは間を引き裂かれている真っ最中だった頃です。
大宮も結構なお年で「大往生」といった感じもあったからか、あまりこまやかな性格ではない大宮の一人息子の大臣は、通り一遍の態度で表立った葬儀を大々的にやっていただけだったのが、夕霧には飽きたらなかった。(それに対して、神経が細かい光源氏がこまやかな配慮を示して供養などしていたのが夕霧には嬉しかったらしい)
そんな中で、大臣の長男であり夕霧の従兄である柏木衛門督が、大宮の死を深く悲しんでいたので、その時に夕霧は柏木のことを好きになったのだ、と。

 

「おばあちゃまの死を一緒に悲しんでくれたから、柏木が好きだったんだ」
と夕霧。

…ババコンですね。まあいいけど。

 

柏木が思いやり深い性格だったため、姉妹たちにも弟たちにも好かれていたことは「柏木」の巻であれこれ描かれています。
長男気質で面倒見が良かったんでしょうね、柏木クン。年下の夕霧にも懐かれていたわけですね。

 

夕霧が雲居雁と引き裂かれていた6年間、彼女に執着して他の縁談に見向きしなかったのは、雲居雁が大宮の想い出を共有する相手だったってこともあるんでしょう。

まあでも、光源氏も祖母が大人になるまで生きていたら、あんなにマザコンをこじらせて藤壺宮に執着し続けたりしないで済んでたかも知れないし、夕霧は「おばあちゃん子」ではあれ、まっすぐ育った方なんだろうなあ。

…書き疲れたので以下次回。